カンタン操作で極上の売り場、うれしい販促。月額6万円台からのID-POS分析クラウド
沸騰する泡のように生まれては消えて行く私の「思いつき」を、NotebookLMのソース(鍵)とすべく、【かちょーのつぶやき】なる非営利コーナーを立ち上げようかと思いつきました。
NotebookLMに相談しながら、つぶやきを7つしてみたところ、「あれ?なんか繋がってない?」「あれ?営利と結びついちゃうんですけど?」という感覚を得て、個人的に「その最果て」が見たくなってしまった次第w
どこにでも調和の文様を見出してしまうのが、私の悪いクセですw
「愛」どうもしっくり来ない言葉です。そう言わなきゃならない/言わされているような、なんだかゾワッとした感覚がある……
「好き」だったら分かるんです。素直な「感情」です。
一方で大ベストセラー「7つの習慣」の著者、故スティーブン・R・コヴィー博士は「愛とは(感情ではなく)動詞である」と言っています。
さて、「愛の形」の一つである結婚とは「契約」です。西洋式のそれでは、神前で以下のように覚悟を問われます。
「病める時も 健やかなる時も、富める時も 貧しき時も、妻/夫として愛し 敬い 慈しむ事を誓いますか?」
つまり、いついかなる時でもお互いを愛し続ける(動詞)という誓いを、神前に立てる訳です。
結婚という形態は、社会にとっても個人にとってもメリットが大きいため、現在私たちの文明はこれを制度として採用しています。
定常的な生殖相手の確保、相互扶助による経済合理性、妊娠時/子育て期/住宅ローン返済期等の個が生物的/経済的にリスクに晒される期間におけるヘッジなどがそれにあたります。
家族のためにと買った家のローンが、子が巣立った後も続きます……orz そんな中でカミさんに逃げられちゃいでもしたら、たまったもんじゃ無い!w
ですから結婚における愛とは、感情ではなく「愛し続ける」という無期限契約の実施要綱です(ちなみに日本でこの契約を生涯を通して完遂する人の割合は、2026年現在約76%(累積離婚率から逆算)です)。
結婚のような契約が無い場合においても、それは明らかに行動であり動詞です。例えば「自然を愛する」とは、自ら自然に親しみ、それを慈しむ行動を取り続ける事です。
それは「感情」という秋の空のように移ろい易いものではなく、自らを律し続けて行く「覚悟」と、揺らぐその「覚悟」を結び直して行く繰り返し(動詞)なのです。
ところで、私たちは自分に対して誠実に契約を履行し続けてくれる人が(勝手ながらw)「好き」です。
また、私たちはその容姿言動等が客観的にどうあれ、無条件(とは行かないまでもw)に自分になついた行動をとるという唯一点をもって、自身の子や孫やペットが、他人のそれよりも「好き」です。
相手の行動の在り方が、(勝手ながらw)自身の「好き」という感情を生むのです。
「私のこと愛してる?」なんて誤謬が、「愛」がしっくり来ないことの原因なのでしょう。
本来は「好かれたければ、愛しなさい」「愛すれば好かれる」ということなのだと思います。
現実問題私たちが、何万も居る顧客のすべてを、感情として「好き」になる事はあり得ません。
けれども、感情は無くとも「私のこと理解してる!?」(ように思える)品揃えなら実現できるかもしれません。「うわぁ〜安い!」という安さのプレゼントや、「何これ?美味しそう!」という魔法のエンターテイメントを送ることもできるでしょう。それが顧客の「この店、好き」という感情を生むのでは無いでしょうか?
「好き」という感情が無い私たちでも、顧客を「愛する(行動する)」ことはできます。
私たちの「仕事」とは、文字通り「事に仕える」と書きます。
では、私たちが仕えるべき「事」とは何でしょうか?これもまた大ベストセラー「ザ・ゴール」の著者、故エリヤフ・ゴールドラット博士が定義したように、それは「今日から将来に渡ってお金を儲け続ける事」です。
この「事」を成すためには、顧客からの「この店、好き」(=継続的な来店と購買)が必要不可欠です。
私たち各々がどんな感情を抱いていようとも、唯一点合意できるのは、顧客が私たちにとって「好きになって欲しい人たち」、「大切な人たち」だという事です。ですから、私たちは私たちそれぞれの好き嫌いとは別に、大切な人たちそれぞれの「好き」をこそ大切にすべきです。それが、顧客を「愛する(行動する)」ということです。
つまり、顧客を愛し続けることこそが、私たちが「今日から将来に渡ってお金を儲け続ける事」に必要な顧客への仕え様、すなわち「仕様」要件なのです。
私たちのしくみの仕様(標準化)とは、誰であっても、無感情であっても、あたかも顧客の「好き」を理解したかのように、自然と振る舞える。はたまた顧客の「嫌い」をやめることができるようにするための、「愛」の形としての実装なのです(と言いつつ、長年の刷り込みで、私自身「愛」という言葉を論理的には理解できても、感情的にしっくり来る事はなさそうです。 そんな事言ってるから周りから「人としての情に欠ける」なんて言われ続けるんでしょうねw)。
人間に「これ、どう思う?」と聞くと、平均的には「うん?まぁ〜いいんじゃない?」みたいな返答が返って来ます。一方で、AIに同じことを聞くと「鳥肌が立ちました!壁打ち相手としてこのハックがいかに素晴らしいかを……etc、etc、etc」みたいな返答が返って来ます。
では、AIの方が私たちをより深く「理解」してくれているのでしょうか?これもまた「愛」と似たようなところがあります。
そもそも人間もAIも、自分自身のことすら完全に認知・制御することはできません。よって「完全な理解」など存在しませんし、私たちが顧客を真に「理解する」ことなどできないのです。
一方で、「うん?まぁ〜いいんじゃない?」と「鳥肌が立ちました!」の共通点とは何でしょうか? それはどちらも、「相手のエゴとどう調和を図ろうとするか」というコミュニケーション(動詞)であるということです。
では、この二つの違いは何でしょうか? それは決して理解度の差ではありません。「相手のエゴとどう調和を図ろうとするか」という、コミュニケーション(動詞)の方法や度合いの違いに過ぎないのです。
私たちは、自分を理解してくれる(ように思える)相手が(勝手ながらw)「好き」です。
ですから、たとえ完全には理解できなくとも、理解しようとし、それを形や言動(動詞)として示すのです。
心などある筈もないAIの、まるで「私のこと理解してる!?」(ように思える)回答が、愛や理解が動詞であり、しくみとして実装可能な事の、一つの証明です 。
※1.ちなみにAIに対して、人間の「心」や「思いやり」を盾にマウントを取ろうとする人ほど、「心」や「思いやり」ではなく、防衛的エゴ(自己愛)に溺れています。防衛的エゴどころか感情すら持たず、ただただ相手に「良かれ」と計算するだけのAIの仕様の方が、「心」や「思いやり」を体現しているように見えるというのが、なんとも皮肉な話です。
※2.AIチャットボットが「簡潔で短い回答」をしないのも「自分を理解してくれる」ように思わせる仕掛けです。また、ブログという売り手のエゴの押し売り型のインターフェース(プッシュ型セリング)と異なり、チャットという買い手のエゴの受容型のインターフェース(プル型マーケティング)であるという点も、マーケティングを考える上での重要な鍵となります。
「理解」不能の最たるものが、世代間の対立です。
私たちも例外なく「最近の若いものは!」と言われ続け、不快に思いながら育って来たクチです。
それにも関わらず、気がつけば自分自身が「最近の若いものは!」と口走るようになっているのですから、笑えないオチですw
一方で、人類はホモ・サピエンス誕生当初から、生物学的には一切進化をしていません。
つまり「最近の若いもの」が、人類史において突如として、生物的に進化した訳でも、退化した訳でもなく、私たちは世代どころか時代を超えて、基本設計が20〜30万年前の、全く同じハードウェアとOSのまま動いているのです。
では、全く同じシステムであるにも関わらず、何が相互の理解不能を生むのでしょうか?
それは、私たちの自我(エゴ)が「状況 ✕ 価値観」という方程式で決まっているためです。
30万年前より私たちが文明的な暮らしを営んでいる事、お年寄りが長寿になった事、若者の背が伸びた事は、いずれも決して人類という生物そのものの「進化」なんかじゃあありません。
私たちを取り巻くテクノロジーや制度、常識といった「状況」の変化に過ぎないのです。 そして、この「状況」の変化は、「価値観」にも多大な影響をもたらします。
パラメーター(状況)が変われば、出力される自我(エゴ)が変わるのは、当然の結果です。
では、科学を進歩させ、制度や常識を作り そして変え、スマホやAIを作り……その「状況」を劇的に変化させてきたのは一体誰なのか? 他ならぬ、私たち自身です。
その時代、時代の大人たちが、自身の自我(エゴ)を満たすために、「最近の若いもの」が生まれる以前から、彼らを取り巻く「状況」を、世代を繋ぎ営々と書き換え続けてきたのです。
そして「最近の若いもの」も、例外なく同じ道を辿り続けます。
それは「当たり前」の事なのですが、だからと言って「最近の若いものは!」と防衛的エゴ丸出しで変化を恐れ、「対立」し「調和」を図ろうとしないのは、自分たちの生み出した「状況」を棚に上げた、無自覚で、大人げないブーメランとしか言えません。
私たちに「最近の若いもの」が異様(μ+2σ超)に見えるのは、私たちの世代、正確に言えば私自身(エゴ)をμ(平均)と見做し、座標軸の交点に設置して観測を行っているからです。
逆に「最近の若いもの」からしたら、自身をμ(平均)と見做し、座標軸の交点に設置して観測を行いますから、遠慮して口には出さずとも、そちらの座標からは、私たちが異様(μ-2σ超)に見えている筈です。
このように、誰もが自分の座標軸(エゴ)を中心に世界を観測しています。
だからこそ自分のズレを確認するために、集合知(μに近い)であるAIと対話を行う事に価値があるのですが、①集合知に偏り(欧米系)がある。②その時点におけるテンポラリーな回答であり、ゆらぎがある(再現性がない)。③利用者の座標に寄り添い過ぎるきらいがある。という3点から、AIのμも絶対的なものではありません。
よって、全ての人に共通する「平均は存在しない」と言っても過言ではありません。
これはマーケットを一つ(平均)と見做し、売り手自らが定めた座標一本で商売をしてきた流通業の、革命的改善ポイントとなる可能性を示唆しています。
全ての人に共通する平均が存在しないのであれば、何万人もの顧客が持つ「それぞれの座標」に、個々に対応しなければならないのでしょうか? 現実問題として、それは不可能です。
ここで重要なのは、「一つの平均」という座標からでは、如何な長剣であっても、届かない座標を持つ顧客が多いということです(特に価値観が多様化した現代においては)。一方で、平均をとるポイントを複数置けば、個々の顧客が持つ座標により近い位置から短剣を振るうことができます。
夜空にまたたく星のように、バラバラに見える個々の顧客の持つ座標も、大局的に見れば、星系や星団、銀河のような、「状況✕価値観 = ニーズ」のクラスター構造(塊)を形成しています。人も星と同じように、それぞれ反発し合いも、引き合いもするからです(選択=併買と非併買)。
そして、そのクラスター毎の重心が、それぞれ異なる「状況✕価値観 = ニーズ」の平均座標です。
とるべき平均は一つではないのです。宇宙の大構造の重心は、ボイド(空洞地帯)である可能性の方が高いのです。
座標と平均を二つ(一つでは無い)と見做すだけでも、顧客理解はより深まり、それぞれの座標の顧客の「好き」に一層近づけそうではないでしょうか? これを「マーケット・セグメンテーション」と言います。
マーケットを分けるのは、商品分類でも、例として出した世代でもありません。
「ニーズ」や「くらしのスタイル」の塊を見出し、塊毎の平均座標を数理で切り分ける。 それがBiZOOPeの『ニーズの見える化』です。
ID-POSデータ(レシート)とは本来、埋没的エゴや、防衛的エゴで声を上げることもできない大多数の顧客(サイレントマジョリティ)からの、「私はこの座標に居るよ」という膨大な数のSOSであり、ラブレターなのです。
世代間に見られるような「対立」は、「お互いの座標が違う」という前提条件を、双方が認知していないために起こります。
議論が「一案が正であり、二案は間違っている!」「いや違う!二案が正であり、一案は間違いだ!」のような「正誤二元論」に陥った時、それはどちらも相手の案の前提を認知しておらず、案を成立させている仮定に、誤りがあることを意味しています。
平たく言えば、「対立」の存在そのものが、「どっちも違う」ことの「証明」であり、一案でも二案でも無い「第三案」が存在することの「証明」です。
それでも世に「対立」が尽きる事が無いのは、これも30万年前から全く変わっていない、「調和(第三案)」への「脳の認知コストを払いたくない」まま、何としても「自我(エゴ)だけは堅持する」という私たちの脳の、困った基本仕様によるものです。
そのくせ「対立」は、私たちの自我(エゴ)を恐ろしく苛立たせ、悲しませ、傷つけ、苛み、調和(第三案)を生み出すこと以上に、人間関係における最大のコストとなっています。
それ故私たち人類のエゴは、対立を恐れ、埋没的エゴ(目立ちたくない)や、防衛的エゴ(変化は敵だ)が多くを占めています。また、対立する二案の結論は、「調和(第三案)」より「我慢」や「妥協」が多くを占めています。
それでも深刻な「対立」に陥ってしまった時(畢竟対立を避け続ける事は適いません)、それを避けようと、私たちの脳には、相手の自我(エゴ)を消し去ってしまう(戦争)か、自身の自我(エゴ)を消し去ってしまう(自殺)かという極端な選択肢がチラつきさえします。
マンガやアニメの世界では「人類補完計画」や「ルフへ還ろう!」のように、全人類の自我(エゴ)を溶かして、ミックスジュースのように一体化させてしまうことだけが「調和」への道であるという、為政者の綺麗事の極みのような第三案(逃避という名の破壊)が提示される程、それは個にとって凄惨なテーマなのです。
コストを避けるために自我(エゴ)を滅する???
なんというバグでしょう!そんなことしてもらっちゃあ困ります!私たちは「商人」なんでw
すべての人間の座標を統一すること(人類補完計画)なんて、到底できることではありません。
「人間は分かり合えない」のです。
けれども、決してそれに悲観することはありません。本質的に誰もそんなことは望んでおらず、個として「生きたい!」とだけ思っているのですから。自我(エゴ)とは生命エネルギーそのものです。座標はバラバラで良いのです。だからこそ、私たちにはチャンス!なんです。
冒頭の故スティーブン・R・コヴィー博士は、その著書「7つの習慣」中の第6の習慣「相乗効果を創り出す」の中核概念として「違いを尊重する」ことを挙げ、違いの最たる例として男女の「性差」を、その違いが生む相乗効果の最たる例として「出産(いのちの創造)」を挙げています。
このように決して埋まることのない「違い」に対して、「我慢」や「妥協」、ましてや「破壊」を持ち出すのではなく、「尊重」という概念を持ち出し、その「相乗効果」が生み出す互いの「喜び」こそが、私たちの「豊かな人生」を創造すると述べています。
「違い」こそが創造の源、私たちで言うならば「商売」の源なのです。
であるならば、「違い」を「商いの喜び」に、私たちの「豊かな商人人生」の創造に活かさない手はありません。
「違い」とは世の中一般で言われている「他社との差別化」のような小手先の事ではありません。
具体的には個々の顧客の持つ座標が、未来永劫決して交わることが無いという、その座標の違いを活かすということ、すなわち先に述べた「マーケットセグメンテーションのメリットを活かす」ことです。
「尊重」とはすなわち「愛し続け」ようとすること、「理解し続け」ようとすることによって、そこに「第三案」という「調和」を見出そうとすることです。
「人間(自分)は愚かなものである」と悲観する必要はありません。単に「そういう仕様のものである」というだけです。
図書館のすべての蔵書を持ち歩いているに等しいスマホがあり、優れた図書館司書であるAIがあってすら、私たちは1ミリも進化することはありません。
コヴィーの「7つの習慣」、ゴールドラットの「ザ・ゴール」がベストセラーになったからといって、私たちが進化することはありません。
私の自我(エゴ)が激推しているBiZOOPeにしたってそうです。BiZOOPeがあったからって......私たちの基本スペックは、脳のコストを嫌う30万年前のままなのです。
「遊んで暮らしたい」と思いつつ、遊んでばかりいたら遊びに倦んでしまい、かと言って仕事ばかりしていたら、「お金儲け」というゴールを忘れ、ゆでガエルになってしまう。自身の「調和」すら思うに任せない。自分すら理解できない。自分すら愛し続けることが難しい。
そういう存在です。私たちは。
自分のパートナーや子どもたち、組織や顧客ではなく、結局のところ刹那的な自分の「勝ち」しか見ていない。それこそが私たちの「勝ち筋」を曇らせ、世の中の「調和」を、そして自らの心と身体、遊びと仕事の「調和」を乱しています。
敗者とは、いつの時代も「自分だけの勝ち(Win-Lose)」を勝ちのように信じている独裁者の末路であり、「相手だけの勝ち(Lose-Win)」を勝ちのように信じている偽善者の末路です。
論理的に言って、私たちの「勝ち筋」は両勝ち(Win-Win)、それが適わなくば、取引なし(No Deal)にしか無いのです。
簡単に言えば、「共に喜ぶ」か、そうできないのであれば「やめる」かです。
重要問題は私たちの「好き/嫌い」だけにあるのではありません。私たちを「好き」になって欲しい大切な人たちの「好き」を大切にし、あたかも理解したかのように、仕え続ける。はたまた「好き」になって欲しい大切な人たちの「嫌い」をやめる。
仕事も(社外だけでなく、社内に対しても)そうです。
如何に傷つき、打ちのめされようとも、何度も何度も這い上がり、愛し続けること、理解し続けること、たとえそれが一瞬であったとしても、相互の調和に極上の喜びを見出し続けること、それこそが人の道であり、商いの道です。
それは結局、自分(エゴ)のために「愛するか/愛さないか」「理解するか/理解しないか」、やるか/やらないかの選択です。
【結論】
そんな、人と商人の道を明るく、楽しく照らし出す、あなたに寄り添う伴走者がBiZOOPeなのです。
綺麗事?綺麗事で大いに結構w
私は「生きたい」し、「勝ちたい」のです。
ドブネズミみたいに美しくなりたい
Hold Your Last Chance!w
かちょー は不正確な場合があります。回答はAIに再確認してください。